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豆知識

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家紋や名字、その他「和」に関するミニコラム

    有名人の家紋 5(安藤広重)

      安藤広重
    • 安藤広重 。1797年 - 1858年10月12日、 浮世絵師。 江戸の下級武士・八代洲河岸火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子。浮世絵師としては歌川広重と名乗る。風景画を主に制作し、一立齋と号を改める。主作品は『東海道五十三次絵』『名所江戸百景』等。家紋は"ヒロ"の文字を図案化した創作紋。(参照:一本気新聞)

    有名人の家紋 4(渥美清)

      渥美清軸付き三つ藤巴
    • 渥美清 。1928年3月10日 - 1996年8月4日、 俳優。 東京市下谷区車坂町出身。新聞記者の父・友次郎と元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母タツとの間に出生。本名は田所康雄。代表出演作は「男はつらいよシリーズ」 「渥美清の泣いてたまるか 」等。家紋は軸付き三つ藤巴。画像は源慶寺にて。(参照:一本気新聞)

    清盛七弁天

      1180年(治承四年)、福原遷都の際、平清盛が平家一門の氏神として深く信仰している安芸国厳島神社をこの地に勧請しました。福原京の周り七つの地に厳島神社を勧請したので、七弁天と呼ばれ花隈(はなくま)、佐比江(さぴえ)、西宮内(にしみやうち)、夢野(ゆめの)、真野(まの)、渦輪(うずわ)と兵庫となっています。(兵庫厳島神社の説明板より)


    • 和田神社(あんぜん弁天)

      和田神社 和田神社
    • 元は、現在地から西南に約800mの海岸にあり「蛭子(えびす)の森」と呼ばれていました。平清盛が大輪田泊りの修築の際、事業の無事と将来の繁栄を祈願し安芸の宮島より市柿嶋姫大神を勧請しました。その後、南浜総氏神と広く人々に親しまれ、隣松院と呼ばれた社務所には、西国大名や勝海舟が訪れました。


    • 真光寺(おんがく弁天)

      真光寺(おんがく弁天) 真光寺(おんがく弁天)
    • 時宗の開祖、一遍上人が亡くなったところに建立されたお寺です。境内の左手に一遍上人の廟所があり、五輪塔は県の重要文化財に指定されています。※廟所(びょうしょ) 先祖の霊をまつる建物


    • 済鱗寺(べんきょう弁天)

      済鱗寺(べんきょう弁天) 済鱗寺(べんきょう弁天)
    • 1493年(明応2年)、真誉林光上人の開祖。西連寺と号していました。海中より出現の阿弥陀仏像を本尊とし、魚類済度を合わせ行ったため、済鱗寺と改名した。先の大戦で本堂以下全てを焼失し、現在は仮の本堂に阿弥陀仏像をお祀りしています。


    • 恵林寺(うんどう弁天)

      恵林寺(うんどう弁天) 恵林寺(うんどう弁天)
    • 1346年(貞和2年)錦江省文禅師により開山された臨済宗のお寺です。境内には、平清盛が経ケ島築造の際に困難や水難克服を祈願して建てられた弁財社があり、「波除(なみよけ)の弁天」と呼ばれていました。


    • 兵庫厳島神社(おしゃれ弁天)

      兵庫厳島神社(おしゃれ弁天) 兵庫厳島神社(おしゃれ弁天)
    • この付近は、昔「渦輪」と呼ばれた湊川の旧川筋にあたり、さらに地下水も湧き出して淵のようになっていたと言われていました。清盛が兵庫津発展のためにこの神社を建立したと言われています。また、清盛ゆかりの「外弁天」と伝えられています。


    • 氷室神社(れんあい弁天)

      氷室神社(れんあい弁天) 氷室神社(れんあい弁天)
    • 源平合戦時、平通盛と愛妻・小宰相が別れを惜しんだ場所とされている。北城戸の陣があった。日本書紀によると1600年ほど前に、額田大仲彦は、この地で狩をしていたとき、穴倉に「冬取った氷を草で包んでおくと夏も使えると聞き、天皇に献上したところ喜ばれた。日本最初の、冷蔵庫である。


    • 花隈厳島神社(けんこう弁天)

      花隈厳島神社(けんこう弁天) 花隈厳島神社(けんこう弁天)
    • 清盛が建立したときは宇治川の左岸にあったが、2度の移転で現在の場所に鎮座した。宇治川の近くの町名が弁天町なのは神社があった名残。自宅から約20キロの歩き旅にて清盛七弁天めぐりをしました(2013.12.22(日))。歩くといつもは気づかないことに気づかされ、ちょっとした驚きを感じる事ができます。みなさまも歩き旅してみませんか。*今コーナーの写真並びに文面は「明石海峡大橋 北南」さんのサイトを参考にさせて頂きました。

    有名人の家紋 3(赤塚不二夫)

      赤塚不二夫丸に三つ柏紋
    • 赤塚不二夫 。1935年9月14日 - 2008年8月2日、 漫画家。 満州国熱河省に生まれ、6人兄弟の長男として育つ。1956年に貸本漫画『嵐をこえて』でデビュー。その後石ノ森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。代表作は「もーれつア太郎」「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」「天才バカボン」など。(参照:一本気新聞)

    有名人の家紋 2(青島幸男)

      青島幸男丸に三つ柏紋
    • 青島幸男 。1932年7月17日 - 2006年12月20日、 政治家。 東京市日本橋区堀留町の仕出し弁当店・弁菊の次男として出生。「スーダラ節」「明日があるさ」等の作詞者、「意地悪ばあさん」の主役俳優。「人間万事塞翁が丙午」で直木賞受賞。政治家としても参議院議員、東京都知事を務める。家紋は丸に三つ柏紋。(参照:一本気新聞)

    神戸の神社仏閣 16(證誠神社)

      十六葉八重菊に三つ巴紋 證誠神社 證誠神社
    • 證誠神社は「大手の権現さん」とも呼ばれ、987年(永延元年)に紀州熊野の権現さんを勧請して妙法寺川沿岸の大手・東須磨・野田・駒ケ林の五ケ村の氏神として創祀された。1182年(寿永元年)に須磨の地にご遷都されるにあたり、大手の守護神として平家一門の崇敬篤く、徳川の代に「須磨聖霊大権現」と称せられた。明治初年に證誠神社と改め、明治六年村社、同十四年郷社(須磨区内唯一の神社)に加列、大正五年神饌幣帛供進神社に指定せられ須磨地域一円の守護神として、その御神徳を崇敬せられ現在に至る。現在境内に宝永五年聖霊大権現奉献と刻された石灯篭が安置されている。 御祭神は五十猛命(いそたけるのみこと)で、樹木の神として風水被害を植林及植樹により守護し、農工商業を繁栄せしめたる大神として尊崇され、古事記神代巻上では大国主命を助けたことにより、いのちの神として大難厄除、大病へ平癒祈願の信仰を集めている。 この神社の祭日には必ず少し雨が降るために「しょぼしょぼ権現降る長田生田は降らぬことなし」と、昔から言い伝えられている。。神紋は十六葉八重菊に三つ巴紋。〒654-0031 兵庫県神戸市須磨区権現町1丁目3−2。TEL.078-731-2743。(2013.11.10(日)撮影)

    有名人の家紋 1(相田みつを)

      相田みつを家紋は丸に片喰紋
    • 相田みつを 。1924年5月20日 - 1991年12月17日、 詩人・書家。 栃木県南西部の足利市に生まれる。曹洞宗高福寺の武井哲応老師と出会い在家しながら仏法を学ぶ。代表作は『にんげんだもの』『一生感動一生青春』『じぶんの花を』。相田みつを美術館館長の相田一人は長男。画像は足利市・法玄寺にて撮影。

    小倉城で「お・も・ち・つ・き」

      おもちつき
    •  小倉城天守閣(北九州市小倉北区)に飾る大鏡餅の餅つきが15日、天守閣前広場で行われた。大勢の参加者が威勢の良い掛け声に合わせ、蒸気が立ち上るもち米をきねでついた。
       明るい社会づくり運動北九州地区協議会などでつくる実行委員会が、師走に行う恒例行事。小笠原藩の石高(15万石)にちなみ、もち米1石5斗(225キロ)を用意した。出来上がった餅は、小笠原家の家紋「三階菱」にならい、直径1メートル、80センチ、60センチと3段重ねの大鏡餅にする。重さは約370キロ。
       大鏡餅は、22日に天守閣1階に飾り付けられ、新年を迎える。鏡開きは来年1月11日で、13日の成人の日には、おしるこにして約2000人に無料で振る舞われる。(読売新聞より)
      読売新聞サイトはこちら

    神戸の神社仏閣 15(福海寺)

      丸に二つ引両紋 福海寺 福海寺
    • 当寺は康永3年(1344年)、足利尊氏公により開かれました。  話は建武3年にさかのぼります。京都合戦に敗れた尊氏公は、丹波路を取り播州三草より兵庫に来られましたが、新田義貞軍の兵士に追われるところとなり、急遽福海寺の前身である針が崎観音堂の壇下に身を潜められました。それにより辛うじて一命を取り留めた尊氏公はその後兵庫を出航され、九州より西国の水軍を率いて、観世音菩薩名号の帆を張った軍船を兵庫の地に再上陸させます。そして見事湊川の合戦に勝利されたのでした。  室町幕府を開かれた尊氏公は、康永3年(1344年)一命を取り留めることとなった針が崎観音堂への報恩と、彼我戦没者供養、祝国安民祈願の為に、京都正伝寺より在庵圓有(ざいあんえんゆう)禅師を拝請し福海寺を開かれました。  福海寺は正式には「福海興国禅寺」と言います。「福海興国」の文字は、尊氏公が福海寺の前身である針が崎観音堂で命拾いされ、兵庫より出航された事が国を興す元に成ったとの感謝の念を表されたものです。そのため尊氏公からは寺録と「福海興国禅寺」の寺額を賜り、足利義満公からも「大光山福海寺」の寺額を賜るなど、福海寺は室町将軍家から厚い崇敬を受けました。  その後福海寺は、嘉吉(かきつ)の乱の火災で新田義貞陣所跡の二本松(現在の兵庫駅)より現在地に移転して来ました。慶長の除地帳にもその名は出ており、元和元年の調査では、除地高四反九畝十七歩、六石四斗四升と記され、本堂はじめ十六人の僧の屋敷が除地となっています。  元禄九年の兵庫津絵図等を見ると、福海寺は兵庫津の西の入り口「柳原惣門」の要衝にあり、境内が「枡形」を構成する大規模な様子から、兵庫城の防備の役目をしたことがうかがえます。。寺紋は丸に二つ引両紋。〒652-0806 兵庫県神戸市兵庫区西柳原町10−10。TEL.078-671-6242。WEB. http://www18.ocn.ne.jp/~fukukai/(2013.10.30(水)撮影)

    政治家の家紋 57(由利公正)

      由利公正花角紋
    • 由利公正 。1829年12月6日 - 1909年4月28日、 政治家、実業家。 福井藩士・三岡義知の長男として越前国足羽郡に生まれる。福井藩士としては殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建する。五箇条の御誓文の起草にも参画。東京府知事に就任。政府に対して民撰議院設立建白書を提出する。家紋は花角紋(花菱紋)。(参照:一本気新聞)
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